土佐佐賀海岸


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2019

白河の関

白河の関


白河の関跡 白河の関跡碑 三歌人の歌碑 堀の跡 白河神社 静かな遊歩道 奥の細道碑 旗立ての桜 従二位の杉 芭蕉と曽良の銅像 江戸時代の古民家 家族連れで賑わっていた 売店やそば屋さん

白河の関は陸奥の三関の一つとして知られた関で、古くから多くの歌人に詠み継がれてきた典型的な歌枕の地だ.古くは平安中期に能因が白河の関を歌に詠み、その能因の足跡を訪ねて平安末期の西行がこの地で歌を詠み、更に能因や西行の足跡を追って江戸時代の芭蕉が、そして今も多くの芭蕉フリークがこの地で芭蕉や西行、能因の足跡を追っている.


芭蕉が『奥の細道』の旅に出るにあたり、白河の関を越えることを重要イベントにしていたことは本文冒頭の、『春立てる霞の空に、白河の関を越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかづ、...』という台詞からも伺える.春の霞は勿論能因が詠んだ、

 都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関  能因(後拾遺集)

を踏まえたものであることは言うまでもないだろう.『奥の細道』の本文の「白河の関」では、平兼盛などの古の歌人たちが詠んだ歌の断片を織り交ぜながら、曽良の句へ繋げている.


『奥の細道』 白河の関

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかリて旅心定まりぬ.「いかで都へ」と頼り求めしもことわりなり.中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ.秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり.卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする.古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ.


 卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曽良


芭蕉が白河の関を訪れる500年以上も前に、西行も能因が詠んだ歌を思い出して次のように山家集に記している.


みちのくへ修行してまかりけるに、白河の関にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、
能因が「秋風ぞ吹く」と申しけむ折、いつなりけむと思い出でられて、なごり多くおぼえければ、
関屋の柱に書きつけける


 白河の関屋を月のもるかげは 人の心をとむるなりけり  西行(山家集:1126)

関に入りて信夫と申渡りあらぬ世のことに覚えて哀也.都出でし日数思ひ続けられて、霞とともに、
と侍ることの跡たどりまうで来にける心一つに思ひ知られてよみける


 宮古出て逢坂越し折りまでは 心かすめし白河の関  西行(山家集:1127)

最初の歌は西行が白河の関で詠んだもので、荒廃した関所の建屋の柱に歌を書き付けたということからも白河の関は西行の時代には既に関所として機能していなかったのだろう.


後の歌は少々分かり難いが、遙か前に都を出発して逢坂の関を越えた頃までは霞のように漠然とした白河の関への思いしかなかったが、白河の関も越えて遙か信夫の里(福島盆地)まで辿り着いたことに対して感慨にふけって詠んだ歌のようだ.


芭蕉が『奥の細道』で自身の句ではなく曽良の『卯の花をかざしに関の晴着かな』だけを載せているのは、白河の関という歌枕に対する思いが強すぎて良い句生み出せなかったのか、それとも先人たちに経緯を表して自分の句を載せなかったのかは定かではないが、勝手な思い込みによって膨らんだ歌枕のイメージと現実の歌枕とのギャップがそうさせたのかもしれない.


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